選んだはずなのに、なんか違う
選挙に行った。期待した候補が当選した。「今度こそ変わるかもしれない」と思った。でも気づけば、減税を公約していたのに税負担は増え、国民を守ると言っていたのに、なぜか国民が置き去りにされているように見える。
これは気のせいでしょうか。それとも、もっと深い構造的な問題があるのでしょうか。この記事では、「官僚制民主主義」という切り口から、後者の可能性を一緒に考えてみます。
政治家は「選ばれる」けれど、「自由に動けない」
日本は民主主義です。選挙で代表を選び、その代表が政策を決める。それが建前です。しかし現実には、政治家が「こうしたい」と思っても、すぐには動かせない場面が少なくありません。
法律を変えるには国会を通す必要があり、予算を動かすには財務省の査定が不可欠です。制度を変えれば関係省庁との調整が発生し、既存の補助金・許認可・規制には長年の利害関係が絡みついています。
「意思」と「実行」の間には、分厚い壁がある。選べるけれど、自由ではない。これが日本の政治の実態に近いのではないか、と見ています。
官僚機構が強い理由

政治家は数年単位で替わります。首相の在任期間は、官僚組織の継続性に比べれば短い。一方、官僚は違います。同じ省庁で10年、20年、30年と制度を動かし続けます。
法律の抜け穴、予算の組み方、省庁間の力学、前例。「この国を動かす地図」を持っているのは、彼らのほうだと言えそうです。新しく来た政治家が「変えたい」と言っても、その地図を持っていない。だから、政策の方向性と連続性に強く関与しているのは、選挙で選ばれていない官僚たちであるケースが少なくありません。
これは「官僚が悪い」という話ではありません。そう動かざるを得ない仕組みの話です。官僚制と民主主義が組み合わさったとき、決定権と実務の継続性がどちらに偏りやすいか、という構造の話だと考えています。
財務省——決めているのか、制約しているのか

消費税を廃止したい。大胆に減税したい。そう考える政治家は今もいます。しかし、なかなか実現しません。
「財務省がNOと言うから」と言われることがありますが、正確には少し違います。財務省は予算・税収・財政リスクの「数字」を握っている立場にあります。政策を実行するには、その数字が必要です。財務省が「この数字は出せません」と言えば、政策は宙に浮いてしまいます。
彼らは決めているというより、「決められる範囲」を定義している存在に近いのかもしれません。最終決定は政治家であっても、その枠組みを作っているのは選挙で選ばれていない組織である。ここに、構造的な論点があると見ています。
メディアというもう一つの壁

大胆な政策は、批判を受けやすいものです。支持率が下がれば、政治家は動きにくくなります。結果として、「正しいかどうか」より「叩かれないかどうか」が優先されやすい構造が生まれることがあります。
切り取りに見える報道や、印象が先行する報道、炎上リスク。こういった要素が、政治家の行動範囲をさらに狭めているように見える場面もあります。その結果、「変えたい」と思っても、変えられる範囲は最初から限定されがちです。
これは社会主義的な構造なのだろうか
ここで一つ、問いを出してみます。民主主義とは、権力の源泉が国民にある体制です。社会主義とは、資源・予算・規制の配分を国家機関が強く管理する体制、とされます。
では、日本の実態はどちらに近いでしょうか。予算配分は財務省が握り、規制の設計は各省庁が担い、補助金の行き先は官僚の裁量が大きい部分があります。
言葉のうえでは民主主義でも、実際に資源や規制を動かしている主体を見ると、単純にどちらか一方と言い切れない部分がある。そのくらいの言い方が正確かもしれません。答えを一つに決めつけるより、この問い自体を持ち帰ってもらえたらと思います。
誰も操っていない——だから厄介だ
これは陰謀論ではありません。官僚が悪い、財務省が悪い、メディアが悪い。そういう単純な話でもありません。
誰も明確に支配しているわけではないのに、構造によって、国全体が自動的に「同じ方向」へ進まされてしまう。それが官僚制民主主義という現実の一番厄介な点だと考えています。誰かを倒せば解決するなら、まだ話は簡単です。しかし「構造」は、誰かを倒しても残ります。
では、どう見ればいいのか
問題は「誰が悪いか」ではなく、「どう動いても同じ結果になりやすい構造」にあるのかもしれません。選挙は無意味ではありません。しかし、選挙だけですべてが変わると考えるのも、少し違うように思います。
選べるが、自由ではない。意思による支配ではなく、構造による制約。この国がそういう仕組みで動いているとしたら、次に選挙に行くとき、私たちは何を見て判断すべきなのでしょうか。一緒に考えていきたいテーマです。


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